■■ 創始者・沼田一雅 ■■

日本陶彫の父であり、日本陶彫会の創始者である沼田一雅は、フランスのセーヴル陶磁器製造所で働くことを許された最初の日本人です。農商務省海外窯業練習生として、1903年(明治38年)にセーヴルへ赴いた沼田は、日本に当時なかった、彫刻の技法を応用した陶磁彫刻を多く目にすることになります。これに刺激された沼田は帰国後この分野の啓蒙につとめ、日本に陶彫芸術の種をまきました。

沼田一雅の彫刻に対する態度16か条が文献に残っており、当時の沼田の志を知ることができます。

  • ものをつくるとき、写生であっても写生でなくても精神を主にすること
  • 省略すること
  • 軽妙であること
  • 味のある作品であること
  • 技巧の妙味があること
  • 作品の皮相的形態でなく内面にあるものをつかむことが必要
  • 肉づけの部分感が全体の力に総合していること
  • 誇張の過ぎたものはいけない
  • 形、量感、均等ということに注意すること
  • 写実をこえて、ある程度の表現(想像)も必要
  • 動の一瞬を明敏な感覚でつかむこと
  • 魂を失った写生主義はいけない(形だけで死んでいるもの)
  • 表情のないものはいけない
  • どんなものにも精魂をつくさなければいけない
  • いたずらに流行を追うモダン主義は廃頽的である
  • 美観をあたえぬ作品は価値がない

(沼田一雅遺作展 : 近代陶彫の創始者より引用)

■■ 日本陶彫会と沼田一雅の足跡 ■■

陶彫会が設立された昭和26年前後は、日本の陶芸・彫刻に関する揺籃期でもあった。沼田一雅は西欧での経験と旧態依然たる日本の陶芸・彫刻界の狭間で、先を見据え陶彫会設立に当ったものと考えられる。陶彫会設立に到るまでの資料はあまり残されていないが、かろうじて得た資料 郷土美術 第28号、第29号、30号(郷土美術研究会発行)は陶彫会発足に到るまでの背景を推察する貴重な資料となると思われるので紹介しておこう。

まず最初に、終戦直後に美術活動が再開されるが、その中での陶芸・彫刻の活動をメモ的に記しておく。

  • 昭和13年
    日本陶磁彫刻作家協会発会
    沼田一雅、長谷川恕、小川雄平、加藤顕清、山室達、雨宮、三沢寛、長谷川義起、森豊一、その他
  • 昭和14年
    第1回 日本陶磁彫刻作家協会展(日本橋、三越)
  • 昭和16年
    第2回 日本陶磁彫刻作家協会展(日本橋、三越)
  • 戦争で美術活動停止
  • 昭和20年
    青竜社 再開
    二科会 再開
    工芸部の新設(千宗室、勅使河原蒼風、山脇巌など)
  • 昭和21年
    日本美術展覧会(日展)発会
    4月 日本美術会結成(松本俊介、加藤顕清、大澤昌助)
    3月 日本農村工芸振興会(水町和三郎、石黒宗磨、荒川豊蔵、小山富士夫、日根野作三)
    10月 オリエンタルデコラティブ陶磁研究所の設立(瀬戸市西古瀬戸町41番地)
    所長 沼田一雅
    海道興農公社社長 黒沢酉蔵
    加藤顕清(鬼頭太)瀬戸窯神神社の民吉像製作
    北海道興農公社専務 瀬尾俊三
    藤華仙       春陶会

【沼田一雅の経歴】

  • (本名 沼田勇次郎)明治6年福井松平藩祐筆の生まれ(福井市木田新町)
  • 東京美術学校教授 竹内久一に師事
  • 明治36年(1903):フランスセーブル国立陶磁器製造所入所(30歳)
  • 明治38年(1905):ロダンに師事
  • 明治39年(1906):帰国 東京美術学校雇員(33歳)
  • 明治39年(1906):帰国 東京美術学校雇員(33歳)農商務省工業試験所陶磁器部嘱託
  • 明治43年(1910):フランス政府から芸術賞授与
  • 大正10年(1921):フランスセーブル国立陶磁器製造所入所
  • 昭和2年(1927):フランス政府から勲章授与
  • 昭和8年(1933):東京美術学校教授退官 正四位勲四等 授与(60歳)
  • 昭和12年(1937):京都高等工芸学校講師(64歳)商工省陶磁器試験場嘱託

瀬戸の地にセーブルの陶彫を始めようという計画。半工半農の工芸家村構想

  • 昭和22年(1947):日本農村工芸振興会から日本陶磁振興会へと改称、しかし基金(鮎川義輔の残した日産コンチェルンの財産を基金)の凍結とともに解散
  • 昭和25年(1950):3月、陶磁研究所所長辞任、帰京(77歳)
  • 昭和26年(1951):3月10日、日本陶彫協会創立準備会(会長 沼田一雅(78歳))
    5月4日、日本陶彫協会発会
    【会員】
    (東京)
    伊藤芳雄、石川確治、長谷川義起、長谷川塊記、本郷新、大内青圃、渡部徹、加藤顕清、唐杉涛光、河内山賢祐、滝川美一、多田瑞穂、楢谷清太郎、中村直人、中野五一、長沼孝三、村田勝四郎、黒田嘉治、古賀忠雄、小室達、雨宮治郎、安藤士、木内克、木下繁、岸崎夜光、柴田佳石、森豊一、菅原安男
    (神奈川)
    沼田一雅、沼田喜代子、三沢寛、円鍔勝二
    (千葉)
    大須賀力、荒井徳亮
    (京都)
    滝一雄、久保駒太郎、松田尚之、片山辰之助、船津英治
    (石川)
    都賀田勇馬、眞鍋知道、松村周太郎
    (岡山)
    伊勢崎陽山、木村好雄
    (愛知)
    野々村一男、伊奈重厚
    (福井)
    雨田光平
    (群馬)
    分部順治
  • 昭和29年(1954)5月27日、沼田一雅 第10回日本芸術院恩賜賞
    6月4日、沼田一雅永眠(82歳)
■■  沼田一雅 と陶彫芸術 ■■

 以上の経緯を踏まえ、郷土美術 第29号(郷土美術研究会発行)の中の興味のある記述をまず紹介しよう。記事は仲野泰裕氏の書かれたものである。

【オリエンタル陶彫研究所と作家たち(中) 仲野泰裕】
【...児島芳男の記憶では、施設的にはなお不十分な点が多く、未だ築窯中の窯があるような状況であった。更に一雅の内弟子喜代子もいまだ準備不十分のまま所長に就任してしまったと悔述している。このため、試験焼成を始めとする多くの部分を陶磁器試験所【東海支所】の施設に依存していた。そして、製作参考品として、船津英治などの作品を京都から取り寄せており、そのなかには【陶庵】の印銘も認められる。一雅としては、いずれ船津を始とする弟子達を呼び、陶彫研究所の陣容を充実を図る意向のようであった。】

この船津英次については陶彫会第一回出展目録の中を見ていただきたい。欄外に急遽鉛筆で書き加えられている。沼田一雅が、開催日近くなって要請したのではないかと窺えるものである。後ほどにも述べるが、陶彫研究所から失意のうちに昭和25年帰京した沼田一雅は当初の信念【彫刻の陶芸化】を実現すべく、必死に陶彫会を立ち上げたとも思える。
  また、この期にはノグチ・イサム氏が、沼田一雅が所長をしていた陶彫研究所に招待され陶彫作品を短期間のうちに制作、それが大々的に新聞報道された。沼田一雅の胸のうちには沸々としたものが過ぎっていたことは想像に難くない。

さて、陶彫研究所を去るに当っての記述も見られる。

【...一雅は瀬戸に来て3年5ヶ月が過ぎた昭和25年3月、所長を辞し瀬戸を後にしている。
一雅の帰京を早めた理由として、陶彫研究所における待遇や、一雅の仕事に対する瀬戸の作家達の反応などに対する不満があったのではないかとも考えられる。これについて、内弟子喜代子はそんなことは無いと断言している。はっきりした記録が残されているわけではないので、筆者の単なる思い過ごしなのかもしれない。】

更に、毎日新聞社瀬戸支局記者であった榊原孝一の話として、

【...一雅は程よく酒を楽しむのが好きで、よくお付き合いをさせてもらったが、そんな時にもはっきりと口に出してはいわれないものの、言葉の端々に鬱積したものが感じられたという。 今となっては、その真意をうかがうことは出来ないが、船津との書簡にあるような、当初の目的を十分達成できぬまま、また瀬戸の作家達にも大きな影響を与えることなく、いわば失意(?)のうちに、一雅は瀬戸を去ることになったと考えられるのである。】

【一雅が陶彫研究所を退いた後は、加藤顕清が所長を勤めている。このため、顕清が東京から通ってくる機関を中心とした活動となったといわれ、一時、松本という彫刻家の名前も記憶されているが詳細は不明である。
この時期の最も華々しい出来事は、イサム・ノグチが瀬戸を訪れ、陶彫研究所を利用し創作活動をしたことである。これは北川民次がメキシコ滞在中にイサム・ノグチ氏と会う機会があり、意気投合し瀬戸での再会を約束したとの縁があった。このため、来日中のイサム・ノグチを瀬戸へ招待したものである。当時東京美術研究所の指導でも知られる外山卯三郎や瀬戸の伊藤伊平などの力添えによるもので、昭和25年7月10日から16日までの間に、20点余の組み立て式の作品(テラコッタ)が製作された...】

これは、一雅に衝撃を与えたことは容易に想像が付く。一雅は釉薬を使用しての作品を身上としていた。焼成温度は1260度である(最も有名な作品は東京芸大内の正木記念館に収蔵されている[正木直彦像]である。これは、いくつもの部分を継ぎ合わせて釉薬を掛けて焼成した作品)。テラコッタは焼成温度800度、釉がけはしない。いってみれば素焼きの状態である。それが高い評価を得る。 日本陶彫協会の発会時の会員の中に、我が国でのテラコッタ作品の先鞭をつけた木内克が入っていることも、何かの縁があってのことと思われる。

【オリエンタル陶彫研究所と作家たち(下) 仲野泰裕】

一雅の帰京の後には、加藤顕清や野々村一男、大沢昌助はなどが月1〜2回陶彫研究所へ足を運んだようであるが、この時期の作品は知られていない。昭和28年には顕清が渡欧しており名実ともに、陶彫研究所の終焉期を迎えているが、更に数年青木青々、中嶋翁助らを中心とする活動があったようである。

このほか、中嶋東洋、田沼起八郎、加藤唐三郎などが陶彫研究所を訪れている。中でも、田沼起八郎は華仙と縁が深く早くから陶彫研究所の活動に注意を払っていたと考えられ、当時の新しい試みが作品にも認められる。
一方試験場は、陶磁器試験所東海支所から昭和27年以降、名古屋工業技術試験所瀬戸分室と解消しており、八井孝二、内藤義兼などが一雅の指導を得、陶彫製作に腕を振るっている。

このような経緯を経ながら、陶彫研究所支援のパイプはだんだん細いものとなったようである。

さて、最後に、沼田一雅が瀬戸の地に溶け込み難かった理由としては、瀬戸陶芸の風土が考えられる"美濃や尾張といった地は昔から保守的な風土の地であることはよく知られている。例えば、他のから赴いてきた人を"よそ者"ということは最近まで行われていた。

【陶彫研究所創設前の瀬戸には、加藤華仙率いる春陶会が彫刻を中心とする研究会として活動していた。当時の官展系第4科、工芸美術の中枢にいた板谷波山を始として、山崎覚太郎、香取秀真、津田信夫、信田洋、宮之原謙らを次々に瀬戸に招き指導を仰いでいた。陶彫研究所の創設もこのような伏線上のものと考えられる。しかし、いかにも残念なのは、既に述べたように、陶彫研究所の活動が瀬戸の陶芸会に与えた影響の少ないことである。】
【このように、瀬戸は十年に及ぶ陶彫研究所の活動にかたくなに目をそむけ続け、正しい評価すら与えていなかったことである。瀬戸のように、伝統があり、奥行きの深い領域を保持していながら、何故このような新しい活動を温かく受け入れ、育むことが出来なかったのか。今後の瀬戸陶芸の発展を考える上でも極めて重要な問題点である。】
と締めくくっている。

これに対しては、私は瀬戸に近接した常滑の影響が陽に陰にあったのではないかと考えられる。常滑では江戸時代の後半より数多くの名工が産まれ、その頃より陶彫作品が見られる(七福神や狛獅子のような縁起物)。そうした伝統工芸の上に立って明治期より西洋彫刻の手法が常滑に根づいた。記録では、東京美術学校でラグーザに学んだ内藤陽三(鶴嶺)、寺内信一(半月)が常滑の美術研究所(明治16年開設)で多くの子弟に西洋式彫刻教育の指導をしている。手軽に入手できる陶土を利用した陶彫が手がけられたわけである。常滑は瓶や土管で代表される大きな焼き物の産地であり、比較的低い温度でも良く焼き締る原料に恵まれていた。窯も大きく、等身大の肖像や動物像も難なく焼成できた。内藤、寺内の指導は常滑陶器学校の平野六郎(霞裳)に受け継がれ、裾野を拡げた。陶彫の教育を受けた人達は、人形や動物置物の原型づくりに活躍した。明治期後半以来の輸出陶彫の隆盛は常滑産業の基盤ともなった。原型師として柴山清風、片岡武正なども上げられている(作風は江戸時代以来の小細工物の手法を大型作品に用いて微細で写実的な表現を特徴としている)

以上を考えると、瀬戸と常滑の狭間に沼田一雅はおかれたものと考えてもよさそうである。精神的な苦渋を救ったのが石川県九谷かもしれない。確かに、2度目に渡仏した時には前田候に頼まれて九谷焼の参考品として、ドイツで数多くの作品を買い求め持ち帰っている。しかしその作品を瀬戸で無く東京へ送ったのはなぜか。因縁じみたものを感じる。九谷との交流はそれ以後も脈々と続いていたようである。福井県の依頼で昭和10年前後に若狭メノウ彫刻を指導してもいる。

(文責:日本陶彫会・大滝英征)