■■ 創始者・沼田一雅 ■■ |
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日本陶彫の父であり、日本陶彫会の創始者である沼田一雅は、フランスのセーヴル陶磁器製造所で働くことを許された最初の日本人です。農商務省海外窯業練習生として、1903年(明治38年)にセーヴルへ赴いた沼田は、日本に当時なかった、彫刻の技法を応用した陶磁彫刻を多く目にすることになります。これに刺激された沼田は帰国後この分野の啓蒙につとめ、日本に陶彫芸術の種をまきました。 沼田一雅の彫刻に対する態度16か条が文献に残っており、当時の沼田の志を知ることができます。
(沼田一雅遺作展 : 近代陶彫の創始者より引用) |
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■■ 日本陶彫会と沼田一雅の足跡 ■■ |
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陶彫会が設立された昭和26年前後は、日本の陶芸・彫刻に関する揺籃期でもあった。沼田一雅は西欧での経験と旧態依然たる日本の陶芸・彫刻界の狭間で、先を見据え陶彫会設立に当ったものと考えられる。陶彫会設立に到るまでの資料はあまり残されていないが、かろうじて得た資料 郷土美術 第28号、第29号、30号(郷土美術研究会発行)は陶彫会発足に到るまでの背景を推察する貴重な資料となると思われるので紹介しておこう。 まず最初に、終戦直後に美術活動が再開されるが、その中での陶芸・彫刻の活動をメモ的に記しておく。
【沼田一雅の経歴】
瀬戸の地にセーブルの陶彫を始めようという計画。半工半農の工芸家村構想
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■■ 沼田一雅 と陶彫芸術 ■■ |
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以上の経緯を踏まえ、郷土美術 第29号(郷土美術研究会発行)の中の興味のある記述をまず紹介しよう。記事は仲野泰裕氏の書かれたものである。 【オリエンタル陶彫研究所と作家たち(中) 仲野泰裕】 この船津英次については陶彫会第一回出展目録の中を見ていただきたい。欄外に急遽鉛筆で書き加えられている。沼田一雅が、開催日近くなって要請したのではないかと窺えるものである。後ほどにも述べるが、陶彫研究所から失意のうちに昭和25年帰京した沼田一雅は当初の信念【彫刻の陶芸化】を実現すべく、必死に陶彫会を立ち上げたとも思える。 さて、陶彫研究所を去るに当っての記述も見られる。 【...一雅は瀬戸に来て3年5ヶ月が過ぎた昭和25年3月、所長を辞し瀬戸を後にしている。 更に、毎日新聞社瀬戸支局記者であった榊原孝一の話として、 【...一雅は程よく酒を楽しむのが好きで、よくお付き合いをさせてもらったが、そんな時にもはっきりと口に出してはいわれないものの、言葉の端々に鬱積したものが感じられたという。 今となっては、その真意をうかがうことは出来ないが、船津との書簡にあるような、当初の目的を十分達成できぬまま、また瀬戸の作家達にも大きな影響を与えることなく、いわば失意(?)のうちに、一雅は瀬戸を去ることになったと考えられるのである。】 【一雅が陶彫研究所を退いた後は、加藤顕清が所長を勤めている。このため、顕清が東京から通ってくる機関を中心とした活動となったといわれ、一時、松本という彫刻家の名前も記憶されているが詳細は不明である。 これは、一雅に衝撃を与えたことは容易に想像が付く。一雅は釉薬を使用しての作品を身上としていた。焼成温度は1260度である(最も有名な作品は東京芸大内の正木記念館に収蔵されている[正木直彦像]である。これは、いくつもの部分を継ぎ合わせて釉薬を掛けて焼成した作品)。テラコッタは焼成温度800度、釉がけはしない。いってみれば素焼きの状態である。それが高い評価を得る。 日本陶彫協会の発会時の会員の中に、我が国でのテラコッタ作品の先鞭をつけた木内克が入っていることも、何かの縁があってのことと思われる。 【オリエンタル陶彫研究所と作家たち(下) 仲野泰裕】 一雅の帰京の後には、加藤顕清や野々村一男、大沢昌助はなどが月1〜2回陶彫研究所へ足を運んだようであるが、この時期の作品は知られていない。昭和28年には顕清が渡欧しており名実ともに、陶彫研究所の終焉期を迎えているが、更に数年青木青々、中嶋翁助らを中心とする活動があったようである。 このほか、中嶋東洋、田沼起八郎、加藤唐三郎などが陶彫研究所を訪れている。中でも、田沼起八郎は華仙と縁が深く早くから陶彫研究所の活動に注意を払っていたと考えられ、当時の新しい試みが作品にも認められる。 このような経緯を経ながら、陶彫研究所支援のパイプはだんだん細いものとなったようである。 さて、最後に、沼田一雅が瀬戸の地に溶け込み難かった理由としては、瀬戸陶芸の風土が考えられる"美濃や尾張といった地は昔から保守的な風土の地であることはよく知られている。例えば、他のから赴いてきた人を"よそ者"ということは最近まで行われていた。 【陶彫研究所創設前の瀬戸には、加藤華仙率いる春陶会が彫刻を中心とする研究会として活動していた。当時の官展系第4科、工芸美術の中枢にいた板谷波山を始として、山崎覚太郎、香取秀真、津田信夫、信田洋、宮之原謙らを次々に瀬戸に招き指導を仰いでいた。陶彫研究所の創設もこのような伏線上のものと考えられる。しかし、いかにも残念なのは、既に述べたように、陶彫研究所の活動が瀬戸の陶芸会に与えた影響の少ないことである。】 これに対しては、私は瀬戸に近接した常滑の影響が陽に陰にあったのではないかと考えられる。常滑では江戸時代の後半より数多くの名工が産まれ、その頃より陶彫作品が見られる(七福神や狛獅子のような縁起物)。そうした伝統工芸の上に立って明治期より西洋彫刻の手法が常滑に根づいた。記録では、東京美術学校でラグーザに学んだ内藤陽三(鶴嶺)、寺内信一(半月)が常滑の美術研究所(明治16年開設)で多くの子弟に西洋式彫刻教育の指導をしている。手軽に入手できる陶土を利用した陶彫が手がけられたわけである。常滑は瓶や土管で代表される大きな焼き物の産地であり、比較的低い温度でも良く焼き締る原料に恵まれていた。窯も大きく、等身大の肖像や動物像も難なく焼成できた。内藤、寺内の指導は常滑陶器学校の平野六郎(霞裳)に受け継がれ、裾野を拡げた。陶彫の教育を受けた人達は、人形や動物置物の原型づくりに活躍した。明治期後半以来の輸出陶彫の隆盛は常滑産業の基盤ともなった。原型師として柴山清風、片岡武正なども上げられている(作風は江戸時代以来の小細工物の手法を大型作品に用いて微細で写実的な表現を特徴としている) 以上を考えると、瀬戸と常滑の狭間に沼田一雅はおかれたものと考えてもよさそうである。精神的な苦渋を救ったのが石川県九谷かもしれない。確かに、2度目に渡仏した時には前田候に頼まれて九谷焼の参考品として、ドイツで数多くの作品を買い求め持ち帰っている。しかしその作品を瀬戸で無く東京へ送ったのはなぜか。因縁じみたものを感じる。九谷との交流はそれ以後も脈々と続いていたようである。福井県の依頼で昭和10年前後に若狭メノウ彫刻を指導してもいる。 (文責:日本陶彫会・大滝英征) |