■■ 日本陶彫会について ■■ |
■ ご挨拶 ■ 日本陶彫会の目的 |
■ 歴史と現在 |
■ 組織構成 |
■■ 作品掲載に当たって −第65回展までの作品と経緯― ■■ |
第65回展までは、発足当時の主旨(沼田一雅による彫刻の陶芸化)を念頭に、会員審査や作品制作がなされてきました。 |
■■ 日本陶彫会の目的 ■■ |
陶彫とは、土を焼いて作る感性豊かな面白い彫刻である。土は自由自在に心の造形を許容し、焼成の仕方により温もりある姿や堅牢な形に変化する不思議さを持っている。さらには施釉によって生まれる艶やかな肌合いに物語が存在する。 一見何気ない「土の塊」に、人が手を加えると言い知れぬ宇宙の根源的エネルギーが宿り、新たな生命と豊かな量感が沸き上がる。 紀元7000年頃から出発したこの技法は、時代、人によって独特な形態を創りだしてきた。単に形を見せるという造形ではなく、ヒトの生き方を表す思考を含めたものが陶彫の精神である。真実の追求と美の表現の未完成な実験品であるともいえよう。 陶彫会は、そのような楽しい陶彫刻を追求することを目的としている。 日本陶彫会会長 日原公大 |
■■ 歴史と現在 ■■ |
縄文式の土偶、弥生式の埴輪の伝統を持つ日本の焼物彫刻は、奈良時代の磚(せん)の仏像を最後に途絶えてしまった。中国では秦の始皇帝陵に見られたあの素晴らしい兵馬俑も、陶や磁の器物に主眼が置かれるようになった。そしてその陶磁器は見事な開花を遂げ、戦国時代の日本や、ルネサンス以後のヨーロッパで珍重されるようになった。 大正時代、農商務省給費生としてフランス国立セーヴル陶磁器研究所に学んだ沼田勇次(一雅)は、陶磁器で焼き上げられた芸術的な人体や動物を見た。そう云えば18世紀の終わり頃、ヨーロッパでは古代ギリシアのタナグラ人形の復活があったのだ。有田や九谷の影響で発達したセーヴル焼が、こんな素敵な彫刻を作っているのに、日本では福助や招き猫・・・。帰朝した沼田一雅は人々を説き、昭和14年に日本陶磁器彫刻家協会の第1回展覧会が発足した。残念ながらこの会は、迫り来る時局の切迫に、昭和16年の第3回展を以って中止となる。その年の暮には太平洋戦争が勃発した。 総てを失った敗戦後、5年を経て陶磁器彫刻協会の機運が再燃した。評論家の高木紀重の意見などもあって、戦前のどちらかと言えば陶芸家中心の会でなく、彫刻家を主体とした仮称「日本陶彫会」であるべきだと言う理念に、沼田も同意。会長沼田一雅を中心に、50名近くの作家が集まった。例えば本郷新、大内青圃、加藤顕清、唐杉涛光、中村直人、長沼孝三、村田勝四郎、古賀忠雄、雨宮治朗、安藤士、木内克、木下繁、森豊一、菅原安男、円鍔勝二、大須賀力、分部順治・・・。今の彫刻家達が、見て驚くような顔ぶれだった。 殊に戦時中フランスより引き上げて来て、たて続けにテラコッタの秀作を発表した木内克の作品に人々の注目は集まった。ブロンズはない、鉄もない、今のような樹脂もない。粘土を素焼きするだけの塑像でも、こんな見事な作品が出来るんだ・・・。 しかし集まった多くの彫刻家は、現在のように電気窯はもちろん、ガスや灯油窯も持てない時代だった。あるのは古材の薪ばかり。在京の彫刻家達は、作品を江古田の唐杉濤光窯に持ち込んで焼いて貰うしかなかった。幸い近くに住む会員滝川美一(毘堂)も敷地内に窯を築くことができ、ここを拠点として熱心な研究会が持たれることになった。 昭和26年、上野松坂屋の特設会場で「日本陶彫会第一回展」は華々しくスタートした。絵画の展覧会はもう各団体が復活していたが、陶彫だけの会。しかも日展、院展、ニ科展、ニ紀展、新制作協会展などの各派閥を超えた作家たちの集まりだけに、注目は集まった。その後、日本橋三越、銀座松坂屋、池袋西武などからの会場の提供を受けた。 ブロンズが出回り、樹脂の作品も多くなると、焼き物の彫刻は割れるからとの理由で、デパート等からは閉め出され、作家も自分の所属する団体の展覧会に大作を出品するから、陶彫は自然趣味の域に留まる。歴代会長は会の再興、発展に努力して、現在に至っています。焼いた土の彫刻の暖かさ、又は高温にした時の土の肌の変化、金属に負けぬその光沢の味わい、更にはそこに釉を掛けた面白さ、そんなものを追及する人達、またはそれらを学びたい人達の集団の集団でありたい。 (日本陶彫会前会長・岩田 健) |
■■ タナグラ人形 ■■ |
古代ボイオティーアにタナグラという都市があった(現在でも存在する)。1860年代後半に農夫が古代の墓をいくつか発掘してこの人形を発見したのが最初といわれている。そして、その都市にちなんでタナグラ人形と名付けられた。特に1874年には紀元前4〜3世紀のものが多数見つかっている。また、紀元前3世紀から1世紀の墓の内外で小さな人形が多数見つかっている。このようなことから、他の場所で見つかったものも含めてタナグラが初期の主な製造元であったと考えられる。その後アレキサンドリア、マグナ・グラエキアのターラントとシチリアのチェントウリペなど地中海沿岸の各地でも製作されていたことが判明している。 |
■■ 展覧会の変遷と開催年 ■■ |
■ 第65回 陶彫展 ■ 第64回 陶彫展 ■ 第63回 陶彫展 ■ 第62回 陶彫展 ■ 第61回 陶彫展 |
■ 第60回 陶彫展 ■ 第59回 陶彫展 ■ 第58回 陶彫展 ■ 第57回 陶彫展 ■ 第56回 陶彫展 ■ 第55回 陶彫展 ■ 第54回 陶彫展 ■ 第53回 陶彫展 ■ 第52回 陶彫展 |
■■ 組織構成 ■■ |
1 組織構成 @ 会員 A 役員会 B 総会 2 意思決定及び運営に関する規約 規約第15条、16条、17条、18条による |
■■ 資料集 ■■ |
■■ TOPICS ■■ |
【2019.2】 福井県陶芸館 秋季特別展「陶彫の今昔」 日本陶彫会岡山展(瀬戸内想彫会との共催) |
|||| そのほか |